火之悪魔
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高く空を目指して立ち上り、風に形を変える炎は夜の闇をも赤く溶かしてしまいそうな勢いだった。小一時間前に最初の爆発音がしてから、あれよという間に炎は白く丸みのない建物を呑み込んでいってしまった。いまはもう、外壁の白より炎の橙や赤の方が多い。それと灰から空の闇へと溶ける煙。
炎の形は曼珠沙華の花に似ていて、美しく、恐ろしい。昔、曼珠沙華を摘んでくると家が火事に見舞われると叱られたことを機械屋は思い出した。家の庭に曼珠沙華を咲かせているところもあったわけだから、ただの迷信なのだと分かっていたのだけれど、それでも幼い頃は母の言う通り曼珠沙華を手折ることはなかったと思う。触れるだけで、火傷をしてしまいそうな形。目の前で衰えることを知らずに燃え上がる炎も同じ。近づき、手を伸ばすことはできない。
機械屋は最初の爆発音がしてからずっと建物が見下ろせる丘に立っていた。人目につかないように暗色のロングコートを羽織っているが、炎の勢いもあってそれは少し暑苦しくなっている。これだけの炎だというのに、消火に駆けつける人間はいない。建物の中からも、逃げてくる人間はいなかった。
機械屋は手にした手帳サイズのコンピュータから、燃える建物内部のコンピュータへ向けて何度目かの通信を試みた。けれどコンピュータはすべて何らかの原因でシステム・ダウンしてしまっているようだった。肝心のセキュリティ・システムでさえ作動していない。機械屋は諦めて手帳サイズのコンピュータを終了させた。これ以上のアタックは無意味だ。
機械屋がそう判断したところで丁度、彼女の後ろに一台の車が滑り込んできた。彼女が端末をコートのポケットにしまい、代わりに煙草を取り出すと、車の後部座席のドアが開いて男がひとり出てきた。
「生き残った者はいそうか、機械屋」
機械屋と同じように黒をまとった年若い男だった。機械屋は背後から近づいてくる男を見ることなく、煙草を咥えて火をつけた。そして煙を吐くと同時に答える。
「いないだろうね。あたしが到着してから、誰も出てきていないよ」
そう答えてから、曼珠沙華には別の名前があることを思い出した。
死人花。
炎は建物の中にいる人の命を養分に咲いた花そのものだった。そう考えると、何となく自分の咥えた小さな煙草の火さえも薄気味悪く感じられて、機械屋は吸い始めたばかりの煙草を地面に落として靴でもみ消した。
「……そうか。こうなった原因は何だと思う?」
潰した煙草を屈んで拾う機械屋の背に向かって、男はさらに問いを向けた。
「さてね。単純な事故……とは思えないが。何せ炎上が始まってから、こうなるまでの間に逃げる時間は十分にあった。だが誰も出てこない。地下に避難場所があるとも思えない設計だったしね……。何より、元々火災や爆発事故には十分に対応して作られていたはずだよ。それが、何の警報装置も消火装置も作動しなかった」
機械屋は立ち上がって吸殻を携帯灰皿に入れた。煙草の匂いさえ感じられないくらいに、施設を燃やす炎が強くなっていた。
「……外部からのサーバ攻撃とも思えない」
「あぁ。何より、システムは建物の炎上が始まる前にダウンした」
機械屋の答えに、男は僅かに眉をしかめた。それではやはりサーバ攻撃ではなかったのか、と言いたげな雰囲気を察して、機械屋は重ねて答えた。
「こっちの監視をすり抜けて攻撃なんて出来やしない。ダウンしたのさ。内部の誰かが、ダウンさせたんだ」
けれど、内部の人間は誰も出てこない。あるいは、すでにここを立ち去ってしまっているのかもしれない。機械屋の言いたいことがわかったのだろう、若い男はサングラスに炎を映しながら溜息をついた。
「収穫は何もなし、か。仕方がない、そろそろ離れよう。ここで立宮と出会わせたくない」
男の言葉に、機械屋は頷いた。そして二人が燃え上がる施設に背を向けて歩き出そうとしたとき、機械屋に遅れて車へ向かおうとした男が驚愕の声を上げた。
「……待て、あれを……」
引きつったような声に、機械屋が不審に思って振り返ると、炎で染まる施設の中から黒い小さな影がゆらりと現れたところだった。
「人だ。出てきた……」
まさかこんな状況で生きて出てくる人間がいるとは思わなかった。収穫はゼロではない。機械屋は思った。少しでもこの施設について、立宮が何を目指してこの施設を作ったのかを知る手がかりが欲しい。
「機械屋!」
死にかけでも何か情報が聞きだせるかもしれない。そう思って駆け出した機械屋を、男が制するように声を上げた。危険だ、と言いたいのだろう。だが危険を冒さなければ得られるものがないというのなら、機械屋は恐れない。
「あんたは車にいな」
男にそう言い残して、機械屋は丘を駆け下りた。
機械屋が丘を降りる頃には、建物の中から出てきた人影は体を大きく傾けながらも歩いて炎から遠ざかっていた。機械屋はその人影に近づくごとに、踏み出す一歩が小さくなっていく自分を感じていた。近づくにつれて、ただ火災から逃れて出てきた人間ではないことに気付くのだ。最初は足を引き摺っていることに気付き、次には片腕もだらりと垂れるだけだということに気付く。そして、人影がまだ少年だということに気付き、それから火傷よりも出血が酷いことに気付く。
「……ここの研究者じゃあないな……?」
そうして声が聞こえるほどの距離に近づくと、さらに恐ろしいことに機械屋は気付いた。足を引き摺っていて当然だ。片足の大腿部の肉が大きく抉れている。まるで何かに噛み切られたかのようだ。
「あぁ、違うよ。あんた、他に生存者はいないのかい?」
乾いた喉を唾で潤しつつ、機械屋は距離を保ったまま尋ねた。
「いない」
答えた少年の髪は炎に焼けて焦げていた。珍しくもない黒髪。俯いて、腕からの出血を片方の手で抑えているため、瞳の色は分からない。
「その傷は……火災や爆発に巻き込まれたもんじゃあないね」
大腿部の抉れた足。そして焦げた手術着のような衣服。そして片腕は、良く見ればもう二の腕から下が千切れて落ちそうなまでになっている。痛みを感じる体であれば、とっくにショック死していてもおかしくない。
「殺せ、と」
炎で建物の一部が崩れ、風と共に大きな音がした。それに重なるようにして少年が呟いた言葉を、機械屋は聞き逃してしまった。
「何?」
機械屋が問い返すと、少年は淡々と繰り返した。
「殺せ、と言われた。だからそうしただけだ。あんた、いつからここにいる?」
殺せ、と言われた。一体誰に、誰を殺せと言われたというのだろう。機械屋は考えながら慎重に答えた。
「……一時間ほど前からだよ」
「その間ここからは誰も逃げなかったか?」
少年の言葉に、自分が全員殺したのではないのか? と機械屋は思ったが言わなかった。
「あたしの見える範囲ではね」
だから誰も出てこなかったのではないのか。少年以外は誰も。いや、だがそれでは少年に命じた人間は誰になるのだろう。殺したのだろうか。その人間さえも。
「……そうか。それで十分だ」
また大きな音を立てて、施設の一部が焼け落ちた。少年が出てきた場所も、もう炎の壁が完全に遮ってしまっている。これから出てくるものはいないだろう。いたとしても、炎に焼かれて助からないに違いない。
「……あんたには痛覚がないのかい?」
「邪魔なものは捨てた。……この手足も邪魔だな」
もうだらりと垂れ下がるだけの腕と、支えにもならない足。普通の人間であれば、それでも何とか治療して自分の手足を保ちたいと思うだろう。少年は違う。邪魔なものは捨てる。それが体の一部であれ惜しむことはないのだ。
「簡単に捨てるようなもんじゃあないだろう。足がなくてどう歩くつもりだい? それに……あんた、痛覚がないからって血を垂れ流していちゃ、助からないよ」
機械屋が指摘すると、少年はつまらなそうに自分の千切れかけた手足を見て呟いた。
「不便だな、人間は」
機械屋はその言葉に薄ら寒い思いを抱いた。不便だろうとも。だがそれが人間だ。
「あんたが人間かどうか、あたしには判断できないがね」
自分と同じ人だと言い切るには抵抗がある。しかし機械のようだとも言い難い。機械ならば機械屋には制御ができる。しかし、この少年は明らかに機械屋の手に余る。
「人間さ。女の胎からは産まれなかったがな」
ではやはり、と機械屋は思った。同時に、急激に心拍数が上がる。人間の女の胎に代わって、羊水と同じ成分で作られた水の満たされたガラスケースの中で育ち、産まれた。機械のように作られたのではない。確かに産まれたのだ。そういう生き物ばかりを、この炎上する施設は作り上げていた。それこそ、神をも恐れずに。
そしてその神をも恐れない実験の結果が、この地獄のような炎の柱だとしたら。天罰なんて馬鹿馬鹿しい、と思う。けれど、この状況でそれを口にすることは、機械屋にはできなかった。
「迷っているのか?」
鋭く心の内を見透かされて、ますます機械屋は自分の心拍数が上昇するのを感じた。恐怖、だろうか。多分そうなのだろう。自分の半分の年も生きていないような子どもに対して、機械屋は全身が震えるほどの恐怖を抱いたのだ。危険を得て得られるもの。だが得られるものよりも危険が大きいと分かりきっている場合には、機械屋だって迷うのだ。
「……そりゃあね。あんたみたいなのを拾って、その先を不安に思わないような人間じゃあない」
連れ帰って治療するべきだという気持ちよりも、いまここで殺すべきだという思いの方が強い。伊邪那美を焼き殺して産まれた火之迦具土は、すぐに伊邪那岐によって殺された。この少年はまさにその火之迦具土だ。
「なるほど、正常だ」
伊邪那岐ほどの力が機械屋にあれば、今すぐこの少年の息の根を止めるべきなのだ。天之尾羽張はないが、拳銃なら懐にある。とどめをささなくとも、このまま出血死させればいい。だが、機械屋は伊邪那岐ではなく、火を使う術を知った人間だった。迷う機械屋の心を読んでいるかのように、炎の子は言った。
「連れて行けよ。俺はあんたを壊さない」
殺さない。ではなくて、壊さない。人に対してではなく、モノに対して言っているかのような台詞だ。それがこの男の本質であると機械屋が知るのは、もう少し先だ。
「それは、何に誓って言っているんだい?」
機械屋が尋ねると、少年は青い顔を持ち上げて初めて機械屋と目を合わせた。
「エデンで産まれたイブに誓って」
意識が混濁してもおかしくないくらい出血をしていながら、少年ははっきりとした声で言った。その瞳の、何と強いことか。だがそれは、到底まともではない強さだった。
「……このエデンで産まれた、イブに誓って?」
機械屋が微妙に言葉を変えて問い返すと、少年は微笑んだ。悪夢の中で、悪魔を見ているような。
「あぁ、そうだ」
炎を背景に機械屋の頭に焼き付けられたのは、そんな微笑だった。